小説版機動戦士ガンダムユニコーン 1巻

上下巻(機動戦士ガンダムUC(1) ユニコーンの日(上)機動戦士ガンダムUC(2) ユニコーンの日(下) )を読み終わった。

重厚でねっとりと書き込まれた,はちみつの壺をかき混ぜるような感触を得た小説である。アニメを見てから小説を読んでいるが,それぞれの媒体の良さを完全に生かせている少ない例だと思う。

ここからは1巻の話だけに限定する。


アニメは,感動した。
宇宙空間に質量を感じた。宇宙だからと縦横無尽に物が,MSが動けるわけはない。だがアニメ的表現,ガンダム的な表現としてそれを受け入れている自分がいたことを再発見した。
SFのうんちく的なことだが,慣性や質量の定義(その物を動かしにくさ)がガンダムの世界と融合している。自分の生きる場の延長線上にありえる,というのが今までにない感覚だった。

そして何より,戦闘シーンが感涙もので,そこだけ何度見ても飽きない。
前述の質量の存在を意識した動きだけでなく,1機のMSに意思のある人間が1人,乗っていることが明確に描写されているのが改めて新鮮だった。ただのやられ役にも製作者の設定した,登場すべき理由が見て取れる。

理論的にはこんな感じだが,虚勢を剥がすと実際は単に「パーツパージかっこえーーーー(唖然)」であった。
タン,ッタタン,タンっと操縦桿のボタンを叩き,スタークジェガンからミサイルが発射され,増加装甲がパージし,突撃する。その様に見惚れただけである。
映画でハッカーがキーボードにカタカタと何かを打ち込み,最後にEnterキーをターンっと叩く。すると画面にいろんなウィンドウが開き,満足気なハッカーの顔とともに敵地では警報音が鳴り響く,みたいな美学,厨二病の憧れそのものがそこにはあった。

極論,アニメはMS戦だけあればよい。宇宙船内の細かいディティールや人間関係はおまけ。


そして小説では,戦闘なんてストーリーを進める手段,物語内部では暴力的ではあるものの,交渉の一部,という割当が徹底されている。
実際の戦争でも,個々の戦場より戦局,戦略が重要である。もちろんその戦場一つ一つにたくさんの人がいて,それぞれの物語があろうことは確かだが,歴史,いやもっと小さく見積もっても,2つの国の最終的な関連性にはそれは大きな影響がない。

だが,このユニコーンという作品は,ガンダムの世界というものをうまく利用していると,この点で感じる。
なぜか。
ガンダムは一機で戦場を覆し,戦争の行方も左右する存在だからである。

コロニー内のような局地的な場では,MS一機が趨勢に占める,先を左右する力というものが非常に大きい。
一体が持つ,政治力が高い,それも歩兵の集団よりももっと大きな。
MSがあるだけで,戦場が主要な政治の場となるのである。

ガンダムがまだ出てこなくても,MSの戦力というものは全く大きなもので,通常の人はそれに立ち向かうことはできない。
MSに乗るという行為を通じて初めて,他者と撃ちあうことで話し合えるのである。
そのMSを超越し,他のMSを単なる障害に貶める,ガンダムというMSが作る物語が一連の機動戦士ガンダムなんだと思っている。

さらにユニコーンでは,現在の体制を確実に左右するであろう「ラプラスの箱」といファクターがある。
これが,各陣営にとって正体が分からない未知のものであることで,MSを超える物語決定因子となったのが見事だと思う。
通常のガンダムものでは,主眼が「生きる」「生き残る」「守る」ことに比重が置かれがちなのを,ガンダムすら影響下に置く大きなベクトルを示唆できていることがすごい。


と,比較しようにも,アニメと小説どちらも素晴らしい点が全く違う。
もちろん説明不足なアニメ,メカの動きがよくわからない小説,という差はあるが,それはもはや個々の責任ではなく,媒体の特徴そのものであり仕方ない,そう言い切っていいと思える完成度が,両者にはある。
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by phys-can-tell | 2012-07-29 01:31 | 小説
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